There is the English version. If you are interested in it, please check the following URL.
https://www.why-i-created-e.com(1−1)見かけの世界
(1−2)「私という存在」の問い直し
追加の説明
私が見ている?
私が考えている?
(1−3)心の世界に内在する「私」の定義
私という思い
言葉の整理
図による整理
「心はどこにあるのか?」のまとめ
(2−1)心理空間の特徴
(1)対象の存在位置は一致しない
(2)特性の重ね合わせ
(2−2)存在と認識
(3−1)main.html「私」を構成する2つの要素と2つのシステム
(1)見かけの身体
(2) 見かけの心
(3)見かけの行為
(4)重ね合わせと同調のシステム
(3−2)心の世界の中の「私」という存在
(1)自らの心の世界に内在する「私」
(2)外界のコピーであることの意味
(3)「見かけの行為」から「私という思い」の生成
(4)2つの世界を結ぶ記憶の役割
(5)なぜ「私」は生み出されたのか?
「心はどこにあるのか?」のまとめ
追記
あとがき
自己紹介
論文のアドレス
この論文のテーマからは哲学の話なのか?宗教の話なのか?それとも道徳の話をしようとしているのか?疑問に思われるかもしれません。しかしそうではありません。すでにネットに「心はどこにあるのか?」という論文をアップしてありますが、今回の論文はその続編ということで、科学の立場から「私という存在」を更に掘り下げる試みです。
「心はどこにあるのか?」の論文を既に読んでくださっている方には不要かと思いますが、まずはその論文の概略と補足の説明を行い、次に今回の論文の本題に入りたいと思います。なお、論文「心はどこにあるのか?」、並びにのちほど引用する論文「見えるとは何か?」と「私とは何か?」のURLは「論文のアドレス」に記しておきます。
話を始めるにあたり、言葉の使い方について3つ説明しておきたいことがあります。1つ目は論文の表題にあるように、カギかっこを付けて「私」と表記する理由です。この点についてはのちほど(1−3)「心の世界に内在する「私」の定義」で詳しく説明することになりますので、取りあえずは一般的な解釈で読み進めていただいて構いません。
2つ目は、これから頻繁に用いることになる「目の前の世界」や「目の前に見えてい る世界」などの、「目の前の」と「目の前に」という言葉の意味についてです。図1をご覧ください。一見奇妙な構図の絵ですが、私、あるいはあなたの目を通して見えている世界です。つまり、私たちが目を閉じるとそれまで見えていた世界が見えなくなり、目を開けると再び見えるようになります。その見えている世界を「目の前の世界」や「目の前に見えている世界」などと表現して用いることになります。のちほど(1−1)項で説明しますが、それは物質の世界のことを指した言葉ではありません。ご留意いただければ幸いです。
3つ目は、これも頻繁に用いることになりますが、「見かけの」という言葉です。これは2通りの意味で用いることになります。つまり「存在」と「行為」の2通りの意味で用いることになりますが、これも詳細は後ほど(1−3)「言葉の整理」でまとめて説明することになります。取りあえずは「一般常識で考えられているものとは異なる」といった意味だとお考えください。
すべての出発点は目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された、言わば「見かけの物質の世界」である、という事実の理解から始まります。これが前述の3つの論文の第1の論点でした。その事実からは、目の前に見えている自らの身体も脳の活動によって生み出された、言わば「見かけの身体」でるという事実が導かれることになります。更には、「脳の活動によって生み出された世界を心の世界と定義する」とした場合、それら目の前に見えている自らの身体を含めた世界は「心の世界」ということになります。もちろん物質の世界と肉体としての身体が存在するという前提条件のもとでの話です。
目の前に見えている世界が物質の世界ではなく、見かけの物質の世界であるということは比較的理解しやすいことであり、哲学、心理学そして認知科学などを専門にする人以外でも、そのように主張する人は案外数多くおいでです。しかし目の前の自らの身体が脳の活動によって生み出された見かけの身体であると主張する人の数は少ないようです。私自身、目の前の世界が見かけの物質の世界であることは比較的早い段階で理解できていたのですが、脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界が、なぜ自らの身体の外に存在しているのかは謎でした。目の前に見えている自らの身体を肉体としての身体である、と思い込んでいたわけです。その謎が解けたのは案外簡単な理由からでした。
目の前に見えている世界が物質の世界であるとするといろいろと矛盾が生じますが、その1つとして「色についての反例」を挙げることができます。つまり、色は物質の世界には存在しない。物質としての対象で反射した電磁波は眼の網膜に像を結び、電気信号に変換されて脳に到達する。その脳の活動によって色は生み出され、それが目の前の世界を彩っている。従って目の前の世界は物質の世界ではなく脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界である、という論理です。この論理を延長すれば、目の前に見えている自らの身体にも肌色という色が見てとれる。従って目の前の身体も脳の活動によって生み出された見かけの身体である、ということになります。もっとも、これだけの説明でみなさんを納得させることができるとは思っていませんが、目の前の自らの身体の解釈が目の前の世界の理解を妨げているのは間違いないでしょう。
目の前の世界を物質の世界であるとすると、いまお話した「色についての反例」のようにいろいろと矛盾が生じます。同様に目の前の身体を肉体としての身体であるとすると、やはり矛盾が生じます。その詳細については前述の論文「心はどこにあるのか?」の第3章第4節、あるいは「私とは何か?」の第3−2項で詳しく説明していますので、そちらを参照していただければ幸いです。
今回の論文は、目の前に見えている世界も自らの身体も、脳の活動によって生み出された「見かけの物質の世界」、そして「見かけの身体」であるという出発点からの話になります。「馬鹿らしくて付き合いきれない」と思われるかもしれませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。単なる思い付きや推測の話をするつもりはありません。理詰めで話を進めていくことになります。
前述の3つの論文のもう1つの論点は、私たちが日ごろ「私」と捉えているものは、実は「自らの心の世界に内在する存在である」、ということの説明にありました。論文では、心は脳の活動によって生み出されること、また身体と心は質的に異なるものの両者は切り離せない存在であるという観点から
私=私の身体+私の心 @
と定義して話を始めています。
一般常識では、「私の身体」は物質の世界に存在する肉体としての身体であり、「私の心」は知、情、意という言葉で示されるような活動をしている抽象的な存在であると捉えられていると言えるでしょう。もちろん、そのように私という存在を定義しても、何ら問題はありません。つまり、
一般常識での私は、
私=肉体としての身体+私の心(知、情、意で示されるような抽象的な存在) A ということになります。
しかし注意していただきたいのは、ここで問題にしているのは物質の世界の話ではなく「目の前に見えている世界」、つまり「脳の活動によって生み出された心の世界」の話をしているという点です。従って「私の身体」は目の前に見えている身体であり、いまお話したように、それは脳の活動によって生み出された「見かけの身体」であることになります。
ではいま1つの「私の心」について考えてみましょう。私たちは、私が見る、私が聞く、私が感じる、私が考える、私が思い出す、私が話す、私が判断する、私が決断する、というように、「私の心」は様々な活動を行っていると考えています。しかし実際はそうとは言えないようです。例えば、「私が見る」という行為について考えてみましょう。詳しくは論文「見えるとは何か?」で解説しいますので、ここでは簡潔な説明に留めます。
例えば、「コーヒーカップを私が見ている」という状況について考えてみましょう。図2(a)はわかりづらい構図の絵ですが、ある人物の背後からその人物の前方に広がる物質の世界を表したものです。確かに「物質の世界」では「見るという行為」が定義できます。つまり物質としてのコーヒーカップに肉体としての身体の眼を向けることは「見ている行為」そのものです。一方、図2(b)に示すような「目の前の世界」においては「見るという行為」は定義できません。なぜなら目の前の世界は脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界であり、また目の前の身体は見かけの身体であり、それには肉体としての身体に備わっているような眼は存在しません。したがって見かけの身体には「見る」という機能は備わっていないことになるからです。
目の前のコーヒーカップは、見るという行為の結果、その位置に存在している「見かけの存在」であると言えます。何故なら図2(b)の人物は「私が見ている」という思いを抱いてはいるものの、実際は「見ている」わけではないからです。その事実を覆い隠すように、見かけの身体に備わっていると思い込んでいる「見かけの視線」の逆方向に、「見ている私がいる」という思いが用意されることになります。
因みに、物質の世界には色が存在しないことから、物質の世界を表す図2(a)と、次に用いる図2(c)のカップに色はつけられていませんが、心の世界を表す図2(b)には色がつけられています。
目の前の世界が脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界であるという考えは、納得のいかない話だと思います。この考えがもし間違いであれば、これからお話しする私の主張はすべて根底から崩れ去ることになります。そこで別の視点から改めて説明してみたいと思います。
図2(a)の物質の世界の情景を側面から表した図2(c)をご覧ください。テーブルの上にコーヒーカップが置かれています。一方、右側には、その情景を見つめているある人物の肉体としての身体が存在しています。両者の間は物理的に完全に隔てられています。カップとその人物の肉体としての身体を結び付けているのは、視覚を例にとれば、カップから送られてくる電磁波だけです。両者を結びつけているのはそれ以外には何も存在しません。しかもそれはカップから人物に対しての一方通行であり、その人物からカップに向けての働きかけは何一つありません。敢えて言えば、肉体としての身体に備わる眼をカップに向けることぐらいのものです。ただし、視線を向けたからと言って物質の世界そのものが取り込まれるわけではありません。取り込まれるのは電磁波だけです。それから得られるのは、眼の凸レンズを介して網膜に映る上下、左右逆さまのコーヒーカップの像だけです。
ところが私たちは、肉体に備わる眼をカップに向けることで、図2(b)に示すように、目の前の世界にカップを含めた見かけの物質の世界が立ち現れることから、この状況を図2(a)に示す物質の世界に重ね合わせて考えてしまうという間違いを犯すことになります。その結果、目の前の世界は物質の世界であると誤って認識してしまうことになります。
確かに、物質の世界において、肉体としての身体の周囲に物質の世界が存在しているのは間違いのない事実であり、その前提で話を進めています。視線の移動に伴い、目の前に見かけの物質の世界が継続的に立ち現れることから、それが物質の世界であり、それを「私が見ている」と思うのは無理のないことかと思います。
この点についての分かりづらさは、見るという行為に関して、「見る」と「見える」という2つの動詞が使用されていることからもわかります。「何を見ていますか?」と問われれば「目の前のコーヒーカップ」と答えます。一方、「何が見えますか?」と問われれば「目の前のコーヒーカップ」と答えることになり、目の前のコーヒーカップは二面的に解釈されていることがわかります。私たちの思い違いを覆い隠すために、他動詞と自動詞の2つが用意されているわけです。繰り返しになりますが、確かに肉体としての身体の周りには物質の世界が存在しています。このような誤解の根本原因は、目の前の見かけの身体を肉体としての身体であるとする誤った解釈にあります。この点については先にもお話したように、論文「心はどこにあるのか?」の第3章第4節、並びに論文「私とは何か?」の第3−2項で詳しく説明していますのでそちらを参照していただければ幸いです。
目の前のコーヒーカップは、物質としてのカップではなく、見るという行為の結果、脳の活動によって生み出され、その位置に存在している「見かけの対象」であるというのが本来の意味になります。つまり「私が見ている」わけではなく、「対象が目の前のその位置に存在している」ということです。図2(b)に当てはめれば、目の前のコーヒーカップは「私が見ている」という行為とは直接的な関係はなく、見えているその位置に存在しているということです。したがって、このときの「私が見ている」という思いを伴う行為は「見かけの行為」であり、また「見ている私がいる」という思いに伴う「私の心」は、見るという行為を実際は行っているわけではないことから、言わば「見かけの心」であると言えるでしょう。事実、既にお話したように、真の意味での「心の世界」は、目の前の自らの身体を含めた目の前の世界全体だからです。今後は、真の意味での「心の世界」と区別して、一般常識としての心を「見かけの心」と表して用いていくことにします。
「対象が見えているその位置に存在している」という表現に、当たり前のことではないかと思われるかと思います。確かに物質の世界ではその通りでしょう。しかし、いまお話しているのは物質の世界の話ではなく、脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界、つまり心の世界の話であることにご注意ください。決して当たり前のことではありません。
目の前のコーヒーカップを見ているわけではないのにその存在がわかるということは、目の前の対象そのものが「存在であると同時に認識でもある」ことを意味することになります。認識というと目の前の世界などとは別次元の高度な機能であり、言わば心の奥深くにおいて行われると思われがちですが、たとえそれが低次の認識の形態であるとしても、「目の前に存在している」ことは、認識の一形態であることに間違いはないでしょう。
事実、目の前に見えている世界は脳の活動によって生み出された心の世界ですから、それを考えれば別段奇妙なことではないでしょう。また、目の前の存在が同時に認識でもあるという事実は、「私という存在」について考えるとき重要な意味を持つことになります。認識については前述の論文「心はどこにあるのか?」の第4章第2節で、あるいは「私とは何か?」の第4−2項で詳しく説明していますので、参照していただければ幸いです。0p>
また存在と認識については後ほど第2章の(2−2)でもお話することになります。
前述の3つの論文では扱っていませんが、いま1つ図3(a)を例にして、「私が考えている」という行為について検討してみましょう。
まずは図3(a)に示す図形を心の中で上下反転し、さらにその図形を左右に反転してみてください。さほど難しい課題ではないと思います。その結果どのような図形になるかは2つ下の段落に示しておきます。
私たちはこのような課題を前にして、目の前の図形を手掛かりにして、そのイメージを「見かけの心」の中でいろいろと動かすと思います。多分その背景には、脳の情報処理が働き、ごく短時間の記憶が関与してイメージを保持しているものと推測できます。それと同時に私たちは、目の前のイメージを操作することを通して「私が考えている」という思いを抱くと思います。確かに脳の機能として、目の前の図形に対してイメージの操作が行なわれているのは間違いないでしょう。しかし、先にもお話したように、「私が目の前の図形を見ている」ことはありません。それは「見えている」だけのことです。それにもかかわらず答えを導くことができるということは、「私が考えている」という思いを持つものの、それは「見かけの行為」であると言わざるを得ません。
「私が見ている」という思いに伴う「私という存在」は、前述したように、言わば「見かけの存在」であるのと同様に、「私が考えている」という思いに伴う「私という存在」は、「見かけの存在」であると言えるでしょう。もっとも「見かけの行為」、「見かけの存在」とは言っても、何の役にも立たないものが目の前の世界に存在しているとは思えません。図3(a)に示す図形につても同様なことが言えます。考える上での手掛かりになっているはずです。この点についてはのちほど(3−1)項で検討することになります。
因みに上下左右反転した図形は図3(b)のようになります。
別の例として、数学の問題を解く場合について考えてみましょう。数学の試験を受けているとき、解けそうだけれど解けなくて時間ばかりが過ぎていき、残念な気持ちで教室を後にするということは、多くの人が学生時代に経験しているのではないでしょうか?そのあと、その問題について別段考えていないものの、答えが突然わかるという経験を持つ人もまた多いかと思います。
あるいは、新しい発見やアイデアは散歩中や、風呂に入っているときなどリラックスしているときに不意に思い浮かぶということも、数多くの研究者が発言しているところです。もちろんそれ以前に、その問題にじっくり取り組んでいるということが前提条件であることは間違いないでしょう。
このような例からもわかるように、私たちには「私が考えている」という思いがあることから、問題解決は意識して取り組んでいるときだけ行われると思いがちですが、そうでないことがわかります。すべての思考に当てはまることではないでしょうが、「私が考えている」という行為も脳が自動的に情報処理をしている結果である場合が多いのもまた事実でしょう。
「私が見ている」と「私が考えている」の2つの例を示しただけで、これらからすべてを結論づけるには問題があろうかと思いますが、「私がこれらの行為を行っている」と思っているときの「私」は、具体的に何かしらの行為を行っているわけではなく、それは実体を伴わない「見かけの行為」であることがわかります。つまり「私が見ている」と「私が考えている」という思いのもとに行われている行為を「私の心」の知、情、意の知の部分で行われていると解釈するのであれば、「私の心」は実体を伴わない「見かけの存在」であると捉えるのが妥当なようです。
従って、@の図式は
「私」(見かけの私)=見かけの身体+見かけの心 B
と表されることになります。
B式で示される「私」を改めて「私」と定義することにします。つまり「私」という存在は「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立つ、言わば「見かけの存在」であり、「実体を伴う行為」を行っているわけではないことを表しています。B式を逆の視点から考えてみると、次式Cに示すように「見かけの身体」と「見かけの心」から「私」が生み出されと解釈できることになります。この点については(3−2)項で話を進めることにします。
見かけの身体+見かけの心→「私」の生成 C
ここで、一般常識で心はどのように捉えられているかについて改めて見直しておきたいと思います。知、情、意という言葉が示すように、「知」は見る、聞く、考える、話す、覚える、などを表し、「情」は喜び、怒り、悲しみ、などを、そして「意」は決断する、実行する、などを表すと言えそうです。これらは何れも脳の活動によって営まれると考えられていますから、「心は脳の活動によって生み出される」と言えましょう。また同時にこれらの行為は「私という思い」のもとで行われる、という事実に注意を払う必要があります。
「私がこれらの行為を行っている」という思いのもとに、「私」が知、情、意にまつわる行為を行っていると一般常識では考えられています。しかし繰り返しになりますが、実際はそうではなく、「実体を伴う行為」を行っているわけではないことは今しがたお話した通りです。もっとも「私がこれらの行為を行っている」という思いが実際に存在しているわけですから、「私という思い」の存在は否定されるわけではありません。これも先にお話ししたように、目の前の対象を見ていると思っているとき、その見かけの視線の逆方向に「見ている私がいる」という思いが存在しているのは事実です。ただしそれは私たちが思い描いているものと異なるのは間違いありません。何故なら、私たちが一般常識として思い描いているような具体的な行為を「見かけの身体」と「見かけの心」から成る「私」が行っているわけではないからです。
この「私という思い」を伴う「見かけの心」は「見かけの身体」とは異なり、直接認識することはできません。「見かけの身体」であれば、目の前の世界に存在することが同時に認識でもあるわけですから、見かけの視線を向けることでその存在を認識することができます。しかし、もう一方の「見かけの心」は直接認識することはできません。「私がこれらの行為を行っている」という思いによってしか、その存在を認識することはできません。つまり、「私が見ている」、「私が考えている」などの思いでしかその存在を認識することができません。それが、「見かけの身体」と「見かけの心」から成る「私」という存在が、捉えどころのない神秘的な存在であると考えられている原因だと思われます。
この「私という思い」という言葉は、哲学用語の「自己認識」や「自己意識」に似ているかもしれません。確かに類似点があるかと思いますが、「私という思い」は「私が見ている」などの表現にみられるように、「行為」に結びついた概念であることから、「自己認識」や「自己意識」とは異なる意味の言葉として用いることになります。ただ、「私という思い」と「自己認識」が似ているのは事実ですので、取り敢えずは両者が同じ意味であると解釈して読み進めていただいても構いません。
ここで1つ指摘しておきたいのは、「私の心」が知情意から成るとしたとき、「私という思い」は「見かけの心」の中核を担うものであるということです。詳細については、のちほど(3−2)の(3)と(4)項でお話することになります。
もともと分かりづらい話であることに加え、紛らわしい言葉を用いていることで話が更に分かりづらくなっているものと思います。そこで言葉の意味を明らかにすると共に、図2を再度用いることで、これまでの話をまとめることにしたいと思います。
まずは「見かけの」という言葉の意味ですが、それは私たちが一般常識で考えている意味とは異なります。大きく分けて2つの意味で使い分けています。
1つは、「その元となる対象」が物質の世界に「存在」している場合です。「見かけの物質の世界」、「見かけの対象」それに「見かけの身体」という言葉がそれらで、それらに対応するのは「物質の世界」、「物質としての対象」、そして「肉体としての身体」であることになります。まとめると次のようになります。
見かけの物質の世界→物質の世界
見かけの対象→物質の世界に存在する物質としての対象
見かけの身体→肉体としての身体
いま1つは、「存在」に対して「行為」に着目して用いている場合です。例えば、先にお話した「私が見ている」という行為がそれにあたります。確かに肉体としての身体は見るという行為を行っていますが、目の前の世界においては見かけの視線を見かけの対象に向けてはいるものの、実体を伴う行為を行っているわけではありません。あるいは別の例として、目の前のコーヒーカップに向けて見かけの手を伸ばすとき、物質の世界では肉体としての手がカップに向けて伸ばされているのは事実ですが、目の前の見かけの手が物質としてのカップに対して実体を伴う行為を行っているわけではありません。
脳は様々な活動を行っているわけですから、視覚などについて情報処理を行っているのは事実ですが、脳の活動によって生み出される世界を心の世界とする定義のもとでは、「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立つ「私」がそれらの実体を伴う行為を行っているわけではない、という意味で「見かけの行為」という言葉を用いています。
「見かけの心」という表現は、「本来の心の世界」が目の前に広がる世界全体であるのに対し、「見かけの心」は見かけの身体の頭部に位置し、実体を伴う行為を行っていないことを表しています。一般常識の心とは異なることにご注意ください。
「見かけの私」という言葉は「私」と同じ意味で、「見かけの身体」と「見かけの心」から成り立つ、という意味で用いています。
この論文で扱うのは、この実体を伴う行為を伴うことのない「見かけの存在」としての「私」についてです。図にまとめると次のようになります。
では図2を再度用いてこれまでの話をまとめてみましょう。まず図2(a)ですが、これは物質の世界を表しています。物質の世界に肉体としての身体が存在し、その頭部に位置する脳によって情報が処理されています。これがA式で示される状態を表しています。
一方図2(b)ですが、この図全体で示されるのが「目の前の世界」であり、脳の活動によって生み出された「心の世界」を表しています。分かりづらい図ではありますが、私あるいはあなたの眼を通して得られる世界のことです。その「心の世界」の中に「見かけの対象」であるコーヒーカップ、さらに私あるいはあなたの「見かけの身体」の一部である腕と足が描かれています。
「見かけの心」は直接図に表すことはできませんが、見かけの身体の頭部に位置し、「私が見る」、「私が考える」などの見かけの行為によって間接的に認識されるものです。別の視点から表現すると、「自らの心の世界の中に、見かけの身体と見かけの心から成る「私」が内在している」状況を示しています。これがB式で示される状況を表しています。
これもまた、直接図に表すことはできませんが、「見かけのコーヒーカップ」に「見かけの視線」が向けられています。前にもお話したように、見かけの身体に眼は備わっていません。また情報を処理するための脳も存在していません。それにもかかわらず「私が見ている」という思いが「見かけの視線」の逆方向に生み出されています。あるいは「私が考えている」という思いも見かけの行為であることから、そこに表されるのは「見かけの心」であり、その活動を行っていると思われている「見かけの私」であることを表しています。
因みに、論文「心はどこにあるのか?」では「見かけの心」、あるいは「いわゆる心」という言葉が用いられ、論文「私とは何か?」では「見かけの心」が用いられています。
この論文では、「見かけの心」という言葉を用いて話を進めることになります。
ここまでが論文「心はどこにあるのか?」の概説と補説です。まとめれば次の4点になります。
@ 目の前に見えている世界と身体は、脳の活動によって生み出された見かけの物質の世界と見かけの身体である。「脳の活動によって生み出された世界を心の世界と定義する」と、それらはすべて心の世界に内在する見かけの存在である。
A 目の前の世界では「私が見る」などの行為は存在せず、それらは「見かけの行為」である。目の前の対象の存在がわかるということは、それらすべてが存在であると同時に認識でもあることを意味する。
B「私」は「見かけの身体」と「見かけの心」より成り、「自らの心の世界に内在する」ものである。一方「私という思い」は、「これらの行為を行っている」という思いのもと、見かけの視線の逆方向に位置し、それは直接認識することはできず、「これらの行為を行っている」という思いででしか認識することはできない。
C「見かけの」という言葉は、無意味なとか、不必要な、という意味ではなく、一般常識と異なるという意味である。事実、脳は不必要なものを生み出すはずはなく、(3ー2)の(3)項でお話するように、情報処理において重要な働きを担うと考えられる。
2025年10月 白石 茂
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